エヴァ 碇ユイと草薙素子

エヴァは謎がいっぱいあるって話題のなり方を当時してたんだけど
実は言われるほどの謎ってあったのだろうか?と今見てて思う。
まぁささいな謎例えば、カヲル君とゼーレの関係とか零号機に入ってた魂は?
とかはあるんだろうけど、それは知らないでも別に話には関係ない省略で
逆に内面の問題で見てた人はそれぞれ答えは自分の中で出すべきことだと思う。

で、そうやっていろいろ切り崩していっても残る謎というか疑問がどうしてもあって
それは何で最後にゼーレとネルフが対立するの?
って話でいわゆる作品内で出てきた補完計画はみんな身も心も一つになるんし
どっちも補完計画を実行しようとしてたんだから対立しなくてもいいじゃんと
当時思ってた。
ちなみに戦自や日本政府が仕掛けたのは補完計画のことを人類を滅ぼすもの=サードインパクトと捕らえてたからだと思うんだけど。

で、冒頭のゲンドウとゼーレの会話の後副指令の冬月は「エヴァに残った彼女の願い」という言い方をするけど彼女とはつまり碇ユイだ。
多分、補完計画はゼーレにとっては「みんなでいっしょに歓喜の中死にましょう」って計画で
ユイにとっては人類全体が合体して「LCLのスープになってエヴァ初号機の中で永遠の生をまっとうしましょう」ってことなんだと思う。

まぁゼーレの集団自殺ってのは最悪のニヒリズムで、それに関しては特にいうコトなくて
まぁアレだけ偉くなると疲れるんだろうなぁとか思う。
問題は碇ユイの方だ。
物語の最後、初号機は離脱して宇宙の彼方へ行くんだけど
この人の旦那や子供も捨ててまで(初号機に取り込まれたのは事故じゃなくて自分の意思だったのだろう多分)永遠に生きたいって気持ちはすごい欲望だと思う。
自分の姿形が変わっても進化して未知の知性や真理を追い求めるっていう発想に少し恐怖する。
まだ気持ち悪いけど、綾波リリスがやったような全部取り込んでしまい無に帰ろうっていう
狂った母性の方が理解できる。
テレビ版で確かリツコがホメオスタジスとトランジスタジスっていう心理学用語を使う
意味は生物には変わっていこうとする力と今の環境を維持しようとする力があるってことだったと思うけど、そこまでして人の形を捨ててまで何処へ行きたいんだ碇ユイ?って感じだ。
似た印象は攻殻機動隊草薙素子が肉体を捨ててネットに偏在する存在になってしまうトコにも感じるんだけど、そこまでして先へ進みたいのか?と思う。

だから実はバトーとゲンドウって位置的には似ててどっちも女に捨てられてる(笑)
いや捨てられてるんなら救いがあるんだけど、何だろ?突然奥さんがカルト宗教にはまって失踪した感じかなぁ?で男の側は奥さんとの再会だけを希望に生きてくっつーか。
何か村上春樹の小説みたいだけど(笑)
そうやって考えるとゲンドウの人生はキツイなぁとマジで思います。
見てた時は「何だあんた奥さんに会いたいだけだったのかよ!」と株が暴落したけど
今見ると、イヤぁ〜そんなもんだよなぁ人生ってとか思ったりして。
そう考えるとそこまで愛情をもってたゲンドウをあっさり捨ててわが道を行くユイってすごいなぁ
この女、多分内心喜んでるんですよ。
自分の不在でゲンドウが苦しむこと、それがまた喜びなんですよ。
ついでに言うと冬月が好きだったことも知ってたね。
知ってて知らないふりして散々利用してきたとみた。
いやぁ怖いね(笑)
でも、こういう人が一番特するんだろうなぁ基本のトコで他人を必要としてないもん。

ちなみにガナックスのアニメってだいたいこの構造ですよね。
遠く宇宙の果てに旅立つものと地上に残るものの対比
それは同時に永遠の生を生きる人間と歳をとり限りある生を生きるものの対比で
王立宇宙軍の時は宇宙に行くのは男のシロツグで残るのは宗教少女のリクイニなんだけど
この構図がトップをねらえ!だとヒロインのノリコとお姉さまが宇宙の果てで怪獣と戦う内に地上では時間が過ぎていく、昔の友達とかはどんどん歳をとっていく。
ナディアはちょっとよく覚えてないけど、時間軸でいうと滅んでしまったアトランティス人の末裔のネモとナディアの悲哀みたいのが描かれてて。一方で新しくネオアトランティスを立ち上げようとしていたガーゴイルは人間だったってオチがある。

そしてエヴァを経由して、この時間のモチーフは「ほしのこえ」でも受け継がれてるしキューティハニーのハニーとシスタージルにも少しある。

誰かが書いてた気がするけど、この問題意識って多分ポーの一族の二人が吸血鬼になってしまったゆえに永遠に歳をとらない=大人になれない
みたいなモチーフと通じる意識で、SFを愛好する=オタク的世界に埋没する内に世間的な時間の流れと隔絶してしまって心はガキのままだって意識の現われあんんだろうなぁと思う。

でもその流れとはまた別のトコに碇ユイ草薙素子的欲望はある気がする。

例えば大人と子供というモチーフがある時、大人とは碇ユイのようにどこまでも遠くへ突き進んでいく存在なのか?
それとも地に足をつけて家族をもち限られた生と日常を堅実に生きることなのか?
変化と維持。
どっちが子供でどっちが大人なのか?
ただ一方で言えるのは変わらないものなんてないってことで、碇ユイは肉体の不老不死を得たかもしれないけど、生きていく過程でいろんなもの、人を失っていく。
彼女は行き続けるかもしれないけどゲンドウやシンジは死んでいく
それでいいの母さん?

生きていこうと思えばどこだって天国になるわ
だって生きているんですもの

恐ろしい台詞だ。