猫に時間は流れる

小説とは関係ありません。
日本映画専門チャンネル新海誠の「彼女と彼女の猫」を見る。
綿の国星だねこりゃ
ゴメン訂正
新海誠は認める。ほしのこえもそんなには嫌いじゃない。

みんな一緒の時間を生きてるはずなのにいつの間にかズレててバラバラに大人になってく切なさと痛みをちゃんと捉えてるなぁと思った。
そういう孤独感を捉えてるというか。

ラーゼフォンとか最終兵器彼女、いわゆるセカイ系みたいな言い方される作品の特徴として死守すべきもの閉じこもるものとしての学生時代みたいのがあると思うんですよ。

その象徴として出るのがいわゆる制服の美少女で。

「嘘つけ」って感じですよね。
お前らの何割がそんな絵に描いたような青春送れたんじゃ?*1って感じで。

結局さぁあれは作り手にとってのあればよかった、あってほしかった学生時代でしょ。
「何もいいことなかった」制服の美少女もいなくて燻ってたダルかった学生時代の日常を描いて、それでもやっぱかけがえのないセカイだから守りたいっていうんならわかるけど。

田中ユタカの愛人でもそうだけど、いわゆるセカイ系の構造として滅び行く腐ったセカイと防波堤として閉じこもる最後の性癖もとい聖域としての「きみとぼくのセカイ」があるんだけど、その「きみとぼくのセカイ」がバーチャルな作り物だとしたらセカイへの憎悪が本当はメインなんですよね。
多分。だったら正面切って言えって感じで
その憎悪を巧妙にごまかして悪意を引き受けないですむ構造がセカイ系にはあるんだなぁ
ラーゼフォン(やキャシャーン)を見てて思った。

でも「ほしのこえ」ってのはギリギリ閉じこもり場所としての学生時代から出ようって意思があるんですよね。もしくはソレは失われてくものだよっていう忘れがたい実感がちゃんとある。
思うにあのミカコってのは実際の人間じゃなくてもいいんですよね。
ある種ライナスの毛布というか、現実の女に出会う前のアイドルとの恋愛みたいなものというか。
だからアレってオトコノコが大人になる過程で今までスキだったオタクアニメ(ロボットと美少女のセカイ)から離れていく熱かった気持ちが少しずつ忘却されてく過程を描いてると思うんですよね。ソレはオタクじゃなくても普通のOLとかが見れば昔の恋愛と重ねて見れる構造になってるというか。
と同時に気持ちは離れても残るものもある。自分は大人になったけど、彼女は今も変わらぬ姿のまま宇宙の果てでロボットに乗って戦っているという(笑)気持ちは戻らないけど卒業写真のあの人は変わらないみたいな。

最近ドラマ版がリメイクされた内田春菊さんの「南くんの恋人」というマンガがあるじゃないですか。
アレも構造同じだと思うんですよね。
最初読んだ時は何でちよみが死ぬのか(多分作者も)わかんなかったんですけど。
今見るとそういうもんかなって。
ちよみも南くんにとっての孤独な学生時代に寄りかかるライナスの毛布みたいなもので、だからいずれはいらなくなるし忘れてくもの。
だからあれは一種のアイドル論で、だから主演が高橋由美子とか深田恭子だと納まりがいいんだと思う。まぁ内田春菊さんの書いた事情は違うんですけどね。

その意味で「ほしのこえ」は少し違うのかなと思った。
新作の映画もそのモチーフ引き継いでるし。
逆に一回り上の世代の作り手が作ったラーゼフォンの体たらくは何じゃ?
って感じ。

*1:実際幸せな学生時代を遅れてりゃそんな未練はだいたいないでしょ