ガイナックスとおたくの倫理とカウンターカルチャーの遍歴

エヴァ見て王立宇宙軍見てたらガイナックスと80年代の関係とか
カウンターカルチャーへのオタクカルチャーの異議申し立てみたいのを感じて、それを書こうかなぁと思ったけど、王立宇宙軍に関してはこちらがほぼ完璧にフォローしてて
言うことないなぁと思った。

こちら→http://www.axcx.com/~sato/owindex.htm

あとはガイナックス取締役本部長武田康廣さんの「のーてんき通信」を読めば完璧です。
例えばネルフを見てこんなデタラメな組織あるかよ!とか思ってたけど、あぁあるんですね。
って気になる(笑)
逆に言うとこんなデタラメな組織だから、エヴァとか作っちゃったんだって思う。

知ってる方は知ってると思う*1のですが、こちらで対談されてる河田拓也さんは、よくコメントをくださるid:bakuhahtugoroさんで、最近私が書いたBSマンガ夜話ボーダーの回の岡田さんのコメントのやりとりというか、岡田さんの立ち位置は王立宇宙軍を見れば何となくわかると思う。

というかそういう前提を掴んだ上で岡田さんのマイケル・ムーア批判を見ないと肝心なコトを見逃して、単なる町山VS岡田を煽って頭の悪い正義派の人を喜ばすだけかなぁと思う。

私もいろいろ書いて、どちらかというと岡田さん批判みたいな書き方をしたからこそ、どっちが正しいとか間違ってるじゃなくて、ちゃんと対立の背景にある考え方の遍歴みたいのを整理しとかないとなぁと思う。

で、bakuhatugoroさんのりファーを受けて、その意見に概ね同意するけど、あの書き方だと、カウンターカルチャーの側を好意的に書きすぎるかなぁと思う。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040806
嫌な言い方をするけど「おたく」ごときに刺された工藤ちゃんってどうなのよ?
って話で。
結局カウンターカルチャーがダメになったのには、カウンターカルチャーの側が既存の価値観への異議申したて、もしくは破壊しかできなくて、その戦い*2の根拠たる貧困からの脱出が終わった時点で、それ以上の根拠、動機付けが見つけられなかった
というトコにあると思う。

ちなみにここでいうカウンターカルチャーってのはいわゆる団塊の世代の生み出した愛好した文化って言っていいと思う。ATGとかアメリカンニューシネマあるいはロックとかマンガだと永井豪デビルマンとか梶原一騎あしたのジョー
それがギリギリ機能した最後が長谷川和彦さんの「太陽を盗んだ男」でしょうか?

こちら参照http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040427#p1

しかもその世代は自分たちが好き勝手暴れた後、下の世代に何も伝えなかった。
祭りが終わったらとっとと海外に逃げちゃった。
もしくはとっとと大企業に就職して島耕作になっちゃった(笑)
本当に戦わなきゃいけない場所はわかりやすい戦場じゃなくて、表面上飢えを克服したと言われる消費社会じゃなかったのか?

下の日記でボーダーをファンタジーとしての貧乏みたいな書き方をしたけど実は探偵物語にも*3似た印象を覚えるんですよね。
傷だらけの天使」だと背景に貧乏がちゃんとあるから、カウンターカルチャーの構造みたいのも違和感がなく見られるんですけど。
それは実は松田優作さんの印象でもあるんですよね*4

それは70年代カウンターカルチャーを保守したって言い方もできるし、ファンタジーに立てこもったって見方をできると思うんですけど。
そういう動機を失ったカウンターカルチャーの側の居直りみたいな作品って結構80年代に多くて
しかもそれらは固定客層ができあがってるから、マーケットとして機能する。
でもその外への力はないしメッセージを発する気持ちもない。
何か「俺達はとりあえず体制と戦ってるんだ!」っていう言い訳のために作られてたって気もした。
そういう意味でのカウンターカルチャーへの嫌悪感を私は団塊の世代でも外れた位置にいた中野翠さんとか橋本治さん、おたく世代では大塚英志さん浅羽通明さんとか切通理作さんの本で読んで理解してた。
だからおたく世代の人がカウンターカルチャーに警戒して保守に行くのは何となくわかる。
更に言うとオタクの連合赤軍とでも言われるオウム事件もあった。

そういうことを踏まえて安易に反体制に行くのではなく、今この場所で何とか立場というものを見つけてやっていこうという決意みたいのが
王立宇宙軍ガイナックスの作品を見てるとわかりやすいくらいにわかる。

多分見取り図としては
80年代に入って高度消費社会になり、貧富の差による差別・階層の構造が失われた時に失速して内輪のファンタジー化したカウンターカルチャーの後

その消費社会に積極的に乗っていこうっていう、浅田彰とかのニューアカ糸井重里とかビックリハウスとかのサブカルチャーがあって

カウンターカルチャーにも戻れないし、消費社会で無為に戯れるのは何かヤダ、後ろめたい。ルックスの問題やら何やらでオシャレで苦手、こういう社会なりに何とかダサい我々の生き方みたいのを考えようってのがガイナックス作品に代表されるような考え方だったのではないでしょうか。
どっかで読んだけど浅田彰の「逃げろや逃げろ」に対する碇シンジ君の「逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。」みたいな。

それで90年代に入ってバブルが崩壊してオタクが結局一人勝ちしてジャパニメーションは日本の文化みたいにおだてられて、その地位に居直っちゃって保守化したのが今なのかな?

bakuhatugoroさんが書いたオタク第一世代への違和感って私はクレヨンしんちゃんのオトナ帝国大絶賛のあたりから感じる。
あの映画自体は面白いし認めるけど、あのあたりからなし崩し的にノスタルジーブームみたいのが起きて、それが時々すごい居直りに見える。
丁度カウンターカルチャーが反体制をファンタジーとして語り出したのと似た印象を受ける。
いうなれば20世紀のファンタジー化とでもいうのかな?
別にソレ自体はいいんだけど、じゃああんた達がノスタルジーの記憶と戯れてる間に今の日本がどうなったか?って言ったら、バブル崩壊の余波が地方都市にまで完全に広がって、伝統とか文化はコテンパンになって商店街はシャッターが閉まってて失業者増加で日本中がグローバル化コンビニ化しつつあるって状態で。
マイケル・ムーアの「ロジャー&ミー」を見ると程度の差こそあれ同じことが起きてるのは実感できる。
クレヨンしんちゃんで「今の街からは匂いがなくなった」って言い方してて一見過去からの異議申したてに見えるけど、私はその「匂い」のなくなった街で生きてかなきゃいけないんだ。
ってトコで匂いのない街で生きる閉塞感を例えばメフィスト賞経由だと舞城王太郎さんだったり佐藤友哉ファウスト経由*5の作家が書き始めて
その匂いのないといわれる街を何とか肯定的に見ていこうっていう流れの
宮藤さんが脚本を書いた「池袋ウエストゲートパーク」や「木更津キャッツアイ」が出てきた。
おたく第一世代の人はその辺に鈍感なのか無関心なのかもしれない。
日本に関してはこんな感じだろうか?
そしてアメリカでは生活に根ざした具体的なカウンターカルチャーとしてマイケル・ムーアが出てきた*6
多分、岡田さんやアンチマイケル・ムーアの人って昔のカウンターカルチャーの挫折を知ってるから懐疑的なんですよね。ゴダールが批判してタランティーノが評価したってのが恐ろしくわかりやすい(笑)


拙いながらサブカル史みたいのをまとめたのは、こういう前提を共有しないまま、誰がいい、誰が悪いって言っても混乱するだけのような気がしたからです。結局さわぐだけさわいでおしまいみたいな。
半年くらい前に80年代ブームみたいのがあってカタログ的にその当時の作品が持ち上げられてたけど、その前後の文脈をぶった切るやり方は違うなぁと思うし。

参考→http://d.hatena.ne.jp/narko/20040209#p1

日本史や世界史にも流れがあるようにサブカルチャーにも短いながら流れがあるんだと思う。
でもこれはあくまで私の実感で特にカウンターカルチャーに関しては完全に網羅したというわけではないので、そんなに自信はない。
だからここ違うとかそういう意見は積極的に取り込むのでご指摘あればお願いします。

*1:というか今までよくわからずやりとりしてた私がどうかと思うけど

*2:大袈裟なら表現

*3:2,3話しか見てないんですけど

*4:あと関係ないけど当時「おたく」って言葉が無い時におたくの人は「岸田森」さんにオタクの理想像みたいのを見てたみたいですね。怪奇大作戦の牧とか(切通理作さんの「怪獣使いと少年」宝島文庫参照)傷天でいうと修や亨から搾取する辰巳さん(笑)

*5:まぁセカイ系ってのもココに入れていいと思う。つまりオタクってのはオトナ帝国的ノスタルジーへの居直りとほしのこえ的なセカイ系へ分離したんですな

*6:あとはサウスパークのトレイパーカーとマットストーン