愛と幻想のファシズム(上) 村上龍

エヴァブームの時読んだけど、ほとんど忘れてた。
すごい読めたってのとトウジの演説とゼロのヘナチョコぶりだけしか残ってなくて。
久々にページめくってたら面白くて一気に400ページくらい読んだ。
それでもまだ半分以上あるのがうれしい。

うまく感想書けないけど希望の国エクソダスよりこっちの方が本質的な気がする。
「ポスト・ムラカミの文学時代」(著・仲俣暁生)って本では予測が外れたって書いてたけど(作品の舞台は90年代)
これからこっちに行くかも?って予感はする。
たまたまNHKでやってるデータマップっていう特集で雇用対策の番組見てたから思うのかもしれないけど。これとドグラマグラは一生モノです。

多分小説読んでるってよりトウジの演説とかゼロの泣き言を直接聞かされてるみたいな気分の方が大きいかなぁって気がする。だからストーリーの部分って結構どうでもいいというか、当時20歳入りかけの頭の悪い私にゃ経済の優位性がイマイチわかんなかったし。

詳しい感想は今あんま書く気しないというか書こうとすると思想的にどう?ってトコになるからまず当たり障りのないトコでタイトルについて考えようかなぁ
思うに愛と幻想のファシズムってフルーツとゼロとトウジのことなんでしょうね。

フルーツ*1=愛でこの作品において愛ってのはいわゆるセックス

ゼロ=幻想でこの作品においては映画とか結社づくりとか文化とか

トウジ=ファシズムこれはいわゆるリアリズムで力とか暴力、生物学的哲学とでもいうのかな。

ちょっとフルーツの役割がイマイチまだわかんないけど、ゼロとトウジの関係はすごい
わかるんですよね。
いわゆる動物はトウジが言うトコの強者が生き残る弱肉強食のセカイに生きていて弱者は絶えず死んでいくことでバランスが保たれてる。
それに対してNOと言った人間が弱者も生き残れるようにまず、みんなが食えるようにしようって言って農業をはじめて農耕社会になって生物的に弱い人でも生きられる社会が出来上がる。
そしてその余裕が更に政治とか文化を創って今の国家や経済の世界になる。
その文化を総称して幻想とか夢っていい方をしてる。
まぁ言ってみれば情報社会なんて幻想のおこぼれの最下層みたいなもんですよ。
関係ないけど不思議なことに今の社会って幻想の方に近づく仕事ほど高い収入を得られるんですよね。政治家とかIT関係とか(笑)
逆により生活に関わるつまり農業とかの第一次産業ほど収入が低くなって
これは多分経済そのものが幻想の側の産物だからより幻想に近くなるほど価値があるってこと
なんですよね。
で、トウジの思想ってのはそんな文化のせいで本来生きてなくていい人間まで生き残ってしまうから世の中おかしくなるんだ。
弱者は死ねって思想で、その弱者の質を探る前半が面白いです。
特にアニメーターとか時田史郎との会話とか。
で、ゼロがおかしくなるのは自分が弱者の側だって気付いちゃうからなんですよね。
それはもちろん小説家であり映画とったりしてる村上龍の当時の心境で多分。
作品が進めば進むほど、この思想だと俺は死ぬなって村上さんが思ってあがいてる感じが伝わってきます。
で、どこで幻想が優位性をもつのかはまだ下巻を読んでないから保留ですけど。
一ついえることはトウジの狩猟の思想にゼロは幻想を見たんですよね。
言うなれば自然の摂理から逃れるたけに生み出した幻想=文化に逆輸入する形で文化としての自然の摂理を持ち込んだ。
実はこれは大矛盾なんですよね。
たしか望月峯太郎先生のバタアシ金魚の「われわれは人間ではないアニマルなのだぁ〜」って台詞があったけどそれくらい矛盾してる。
今上巻のラスト近くなんですけど、トウジが考えるようになってきてて考える自分に悩み出すんですよね。あと本来弱者の代表みたいなゼロを殺せなくなってて。
この辺どうなるか楽しみです。
でもストーリーをさっぱり覚えてないってことはあんがいつまんなかったのかも。

それにしてもいい言葉がたくさんあります。
日めくりカレンダーにしてトイレに飾っときたいですね。

*1:しっかしアネモネとかフルーツとか村上龍にとって女は人間じゃないんだろうね