本当はさぁゴスロリの悪口書くつもりだったんだ、ロックにしろパンクにしろ私さぁ、ああいうコスプレ感覚ってさぁ基本的にダメなんだぁ、何かさぁ自分隠してる感じがするのよねぇ*1、そりゃ初めにああいう格好した人は*2認めるけどさ、その追随者はさぁどうなの?みんなと同じ格好して馴染んじゃうなんて全然ロックじゃないじゃん!ってそう思ってたの、特に十代の頃は、だから私はそういうコスプレを戦略的に放棄して*3
私服に近いかっこうをしてた電気グルーヴ*4とかフリッパーズギター以降のシブヤ系にシンパシーを抱いてたのよね*5それは詩にしても同じで彼等は結局、例えば詩にしても等身大の自分から離れなかった気がする。
ある意味、身の丈とか等身大の自分とかにこだわることが彼等の表現の根拠になってた気がするんだ。それはさぁ例えば北野武とか黒沢清の映画の芝居でもそうだけど、できるだけ自然体で素でいようとしてて、自分を作って演出するのがカッコ悪いっていう感覚が当時新しいことをやろうとしてた人に中にあった気がする。*6

何かファッションであれ音楽であれ、それをまとうことでその群に染まりたくない、私は私なんだ。そう思ってる私が当時いた気がする。でもそれは何者にもなりたくなかったということの裏返しでもあるんだけど。*7
そういうことをゴスロリさんのミラーサイト見てたら思い出して、少しナイーブになってしまいました。本当はオタクについて書こうと思ってたけど、それは次回。

http://a.hatena.ne.jp/narko/simple

*1:そのくせ口では内面とか自己表現とか言っててさぁ

*2:好みとは別に

*3:と当時は思ってた

*4:まぁピエール瀧さんだけは違ったけど

*5:もっともその後は私服っぽい格好そのものが衣装みたいに制度化してしまうんだけどね、だから今のミュージシャンの一部が過剰にコスプレしてしまうのは、その反動だとも思う。

*6:意地悪な見方をするなら90年代はリアリティを追及しさえすれば最先端を行けたってことよね

*7:どんなに過激なことを考えたり悲劇的な思考をしても、その自分を見て白けてる自分がいてバッカじゃないの!って言う感じ