愛と幻想のファシズム(下)作・村上龍

後半忘れるわけだよなぁ
何か一生懸命勉強したのはわかったけど、
読めば読むほど狩猟社とザ・セブンやら日本政府やらの戦いや関係に興味がなくなってく。

面白いのは多分村上龍さん自体も書いてて飽きてたんだろうね。
書けば書くほどやる気がなくなってくのが伝わる。その意味ではすごく面白い(笑)
前の続きだけどトウジのハンターの思想が強いのは他の文化的な思考、たとえ民主主義とか法律とか天皇制とか右翼とか左翼とか経済とか農耕とかファッション、宗教etcに対して
そんなもの自然の摂理からすれば弱者たる人間が作った幻想だって否定しきったことですよね。
多分岸田秀さんの唯幻論の影響大なんだと思うけど。

そしてそう喝破された後に不安になった人間はみんなトウジのカリスマ性にコロっとやられるんだけど、そういう人間もトウジはやっぱ心の底で軽蔑してて、理由はやっぱ生物としての人間の弱さを直視してないからなんですよね。

直視できないからトウジの近づくことで他の価値観の代わりにしてる。
それじゃ他の弱者と同じじゃないか!って
で唯一、個人で本気で向き合っちゃてヘナチョコになったのがゼロで、だからトウジは共感して殺さないんだけど
そのゼロも宣伝っていう幻想の最たるものを担当するようになってからはどんどん本人の中に
あった不安というか弱さみたいなものが消えていってトウジは失望する。
だから弱さに対するアンビバレントな態度がすごく面白いですよね。
多分弱者にもいろいろいてトウジが不快なのは無自覚な弱者でそれを奴隷って言い方するんだけど
あとゼロがトウジたちの代わりに組織の弱さを担当してるって見方もできる。
弱さってのは逆にいうと可能性って言い方もできて環境に適応できない違和感を感じてるから出るもので、本当に順応してしまった存在は弱さを出すことすらしなくなる。

よくこの作品の感想見るとトウジの思想をどう思うのか?みたいな
トコに焦点が行ってるけど、トウジは結局失敗したのかなぁって感じはある。
完成したと同時に終わったし終わってしまうこと=生物としては停滞であり、残るのはトウジが軽蔑した弱者への道しかなくて。
幻のエレクとはついに同化できなかった。
ある種の青春小説とも読めますよね。

漠然とした夢だったものが、いつのまにかシステムになって退屈なものになってく。
結局、自分だけが幻想から自由だと思ってたけど、自分すら幻想を維持するためのシステムの一部だったっていう。

多分コレをより純化させるとファイトクラブになるんでようね。
結局人間は動物に戻れないんだなぁとか思いました。
そもそもそういう発想=自意識があること自体が人間であることの最たるもので。

あとつまんない(笑)ザ・セブンとの対決の部分だけど、村上さんはこの対決を通じて本質的な意味での「力」とか「強さ」って何か?を考えようとしてたのかなぁと思った。
これが動物なら物理的な牙や爪をもっているっていう身体能力の優劣になるんだけど
人間なら生身に武器って発想がついて
やがて一対一から集団同士の戦略戦になって国家間の戦争になる。
で、戦争っていっても武力の衝突ってのは第二次世界大戦を経て核兵器のある冷戦化では簡単には出来なくなってて、その代わり経済つまりお金もってる奴が偉いんだって話になって
更にその先にそのお金の力を保証してる国の「信頼」の問題になっていって、最後には情報を制した方が強いって構造になる。
そしてその情報ってのは情報の流通と捏造で、それが今の力の正体なんだなぁって
いやお勉強になります。
で、こっちを正確に描こうとすればするほどトウジの思想と離れてくんですよね。
だからすごい分裂した小説だなぁって思う。

まぁ他にもいろいろ思うことがいっぱいあってちょくちょく
読み返すことになる小説かもしんない。
でもよくわかんないのはフルーツですよね。
彼女の役割は?
何か最後までよくわかんなかった。
フルーツがゼロとトウジを見て「小学生の男の子みたい」ってよく言うんだけど、結局いい女の象徴としての存在なのかな?
あと女だけはこの幻想の輪から自由である。みたいな考えかなぁ。
何だかソコだけう〜ん?って感じがあって「俺」系作家だなぁとか思いました。
まぁだから怒るとかは思わないんだけど、でもトウジの参謀に一人も女がいないってのは時代を考えてもどうだろう?とは思うけど。