「〈美少女〉の現代史」ササキバラ・ゴウ著

要するに宮台真司さんいうトコの「政から性へ」の流れなんですよね。

国のため→社会のため、出世(経済的充足)のため→女のため、ときて
「〜のため」を見失ってしまって
煮詰まってしまった男のコの辛さが浮き彫りになって
空っぽになった「〜のため」を虚構(の戦争やら美少女)で埋め合わせるためオタクになったんだなぁってのがよくわかる一品です。

ただ、ちょっと作品の選び方が偏ってるかなぁって気がする。
例えば押井守さんについてはもっと触れた方が美少女論としては展開できると思うし、イノセンスなんか絶好の素材だと思うし。
ブコメあだち充「タッチ」を引き合いに出すのは理解できるけど。
だったらその後に来る望月峯太郎バタアシ金魚安達哲の「キラキラ」、あるいはスピリッツでの山本直樹作品について触れた方がフェアだと思う。
ようするにそれらの80年代後半の作品は脱ラブコメで「女の子のため」って動機づけが困難になった後、男の子達が何とかあがいた作品で

この本で語られる美少女の理解者として振舞うことで男性性を放棄した男のコってのはあくまで片面なんだってこと、つまり私が言うトコの「僕」系の男のコの話でしかないんだと思う。
メジャーなトコではスラムダンクだってそうで桜木花道は晴子さんの気を引くって動機からはじめて、やがてはバスケットマンとして成長してくし。

更にいうと古谷実さんなんかは「ヒミズ」で女の子じゃ救われない男のコまで描いてるし。

よく「動物化するポストモダン」への批判でサンプルとしての事例や作品が偏ってるって批判があるし、大塚英志さんの80年代論にも同じタイプの批判が結構あった。
多分こういう新書って原稿料やすいけど「好きに書いていいよ」って感じなんだろうなぁ。編集のチェックがゆるいからバランスの悪い本*1が多い気がする。
だからこの本もあんまり勉強とかしないで自分の好きな範囲だけで書いてるなぁって感じがどうしてもしてしまう。

あとこの本で「視線としての私」、つまり見る見られるの関係について書かれてるんだけど、「不美人論」でも80年代から美醜の価値観をみんなが意識するようになったって話が出る。
それまでは女の子でも美醜の価値観じゃないくて「気立てがいい」とかの世界に活きてた。
だから逆に70年代までは美少女とかアイドルってのは突出した存在=スターだったんだけど、80年代以降は誰でもアイドルになれるっていう価値観ができちゃったから、みんなが美醜の〈モテる・モテない〉ゲームに巻き込まれてしまった。

何かその辺りが俯瞰できて面白かったです。そして見るだけだった男性諸氏も女性オタクによる「イケメン*2」ブームで「見られる」側に回るようになってきた。
なんつーかすごい時代だなぁ(笑)とか思ってみたりして。

まぁ結論としては「〜のため」じゃなくて、男の子も女の子もまず「自分が楽しくなる」こと考えた方がいいよなぁとかつまんない結論に至りました。
え?それが美少女?
う〜ん地獄めぐり。

*1:逆にがんばりすぎてていいの?って思う本もある切通理作さんの「宮崎駿の世界」とか浅羽さんの「アナーキズム」「ナショナリズム」とか、原価割れじゃないかと心配(笑)

*2:平成仮面ライダーやらウォーターボーイズやら