リリイ・シュシュのすべて 監督・岩井俊二


まず簡単にストーリーを説明すると
二人の中学生の男の子の話だと思っていいと思う。
両親の再婚とかイジメられてたとか色々あったとはいえ。それなりに安定していた友人関係だった二人が南の島に旅行した際の体験がきっかけに片方の男の子、星野が今までいた社会の薄っぺらさに気付いてしまったことで暴君化し裏番長として主人公の蓮見たちの君臨するという話

そしてそれと並列するようにネット上で語られる歌姫リリイ・シュシュ
彼女の歌だけが星野の抑圧下でイヤの現実を忘れさせてくれる唯一絶対の神聖なエーテルを感じさせてくれる存在として映画内で鳴り響く。

映画はその過程を丁寧に描写する。

私はこの映画をリアルタイムで観た時とても不快な気持ちになった。
こう書くとレイプや援助交際やイジメといった現代の歪みにスポットを当ててるからだと思う方がいるかもしれないが、誤解を恐れずに言えば私はそういう題材を扱った映画や小説は大好きだ。
残虐表現や後味の悪いオチにも耐性はあると思う。
そもそも私は先に小説版を読んでいて、それが手法*1
と内容両方で素晴らしかったから是非見たいと思ったんだけど、小説の時は確かにあった「痛み」が何かごまかされてるような気がしたからだ。
それは例えば綺麗な映像だったり巧妙な編集だったりリリイ・シュシュの音楽だったりで。
主人公の蓮見が星野に虐待される時、何度となくリリイ・シュシュの音楽がかかり少し引いた絵で描写される。

例えばヒロインがレイプされるシーンがあるんだけど、こういうシーンを綺麗に撮れてしまう感性に私は岩井監督の中のアンモラルな部分を感じてしまう。
特に圧巻なのは援助交際をしていた津田さんという女の子が自殺する前のシーンで鉄塔の前でカイトが飛ぶシーンはホント、綺麗だ。
今観ると、その綺麗さが悲劇を強調してるなぁと思えるけど、当時はその描きかたには乗りたくないなぁと思った。

例えば同じような重い題材を扱うにも笑いに収斂していくタイプの人がいる。
いわゆるブラックユーモア系とでも言えるタイプで日本だと堤幸彦さんとか宮藤官九郎さん
アメリカだとサウスパークマイケル・ムーアのボーリングフォーコロンバイン
堤さんはお笑い社会派という言い方をしている。そういう表現は良識ある人に不謹慎と言われるけど私はこっちの方が好きだ。
正確に言うとその距離のとり方に共感する。

対して岩井監督はあらゆることを綺麗なものとして描く。イジメも自殺もBBSでの書き込みも*2
その岩井美学がちょっとした恋愛とかなら私は遠慮なく入り込めるんだけど、同じ手法でイジメやレイプを描かれるとその威力がわかるだけに嫌だった。そういう風に描くことをマズイんじゃないか?って当時は思ってその気持ちは今も変わってない。
私は岩井さんみたいな美に収斂していくタイプの表現は苦手だ。というか怖いという方が近い。
その怖さの質はよくわからないけど。絶望の深さを逆に感じる。
多分一つの絶望的な状況がある時*3人、あるいは作家がとる対応としてモラルや道徳を語る説教に行く場合と説教せず「美」や「笑い」に向かう場合。
後者の「美」も「笑い」も絶望あるいは諦念の表れだ。ただ諦念の質は少し違うかも。
「笑い」がノイズが混ざることでどんどん相対化されていくのに対し、「美」は世界を囲い込み閉域化していき純化していく。


また当時この作品が不快だった理由に登場人物の感情の流れがわかりづらいことがある。
全員はじめから役割が決まっていたような。いろいろな葛藤の末こうなったっていう流れが見えづらい。
例えば最後に蓮見が星野を刺すシーンも突発的でいろいろな抑圧が頂点に達して刺したという描写だけど、これが久野さんがレイプされた時点で蓮見が星野に憎しみを抱き、だんだん殺意がわいてきて復讐計画を立てて、その結果ああなったんなら感情の流れはつながる。

他の登場人物でもそうで、星野の豹変もただ現象だけが提出されて感情そのものは描かれない。
その代わり例の美しい描写、
唐突に川に飛び込んだり。水浴びしたりなどがあり、そのシーンを見ながらこちらの想像と過去の記憶から内面を想像するしかない。
キネ旬ムック「岩井俊二」特集の宮台真司さんの原稿でも岩井俊二は語るのが難しく、その映画について語ってるのか自分の記憶について語ってるのかわからなくなるとあるけど、本当にそう思う。

さて、ここまで書いててキリがない気がしたので、印象に残った点を二つ。一つは女性徒の描写。
最初の剣道部のミーハーな女性徒の暴力的な描写と後半の合唱コンクールの練習をボイコットする神崎たち女性徒。
いやぁ中学の時いたよなぁ〜って思い出す。神埼もそうだし、あの取り巻きも。
おれを見てるとたしかに中学生って凶暴だったなぁって思いだす。
男の子も女の子も。
唯一違うのはその凶暴性が簡単に社会や道徳を超えちゃうことだけど、私は当時想像力が及ばなかっただけで、あるトコにはあったんだろう。と同時に今回みてて思ったのは久野さんの対応を見てて、そりゃ怒るしイライラするなぁと神崎の方に共感してしまったことだ。彼女はこの作品に置いて5番目*4の主人公だと思うけど。彼女だけが自分を取り巻く絶望が見えていない。
だからラスト彼女の登場シーンは無くなるんだけど、私としてはイジメっ子五人対星野というドラマをもう一つ作ってほしかった。
多分それは岩井さんが裁きたくなかったから入らなかったんだろうけど、そこで無自覚に人を傷つけてた神崎が自分の罪?を自覚することではじめて彼女の物語は完結するような気がするんだけど。
そしてああいう無自覚な人間を星野は軽蔑してたと思う。

もう一つはやっぱり星野で、この物語の主人公は蓮見と星野だと思うんだけど、どっちの感情移入するかでその人の価値観が出るような気がする。
私はどうにも岩井さんが描く受身系の男の子キャラが苦手で「花とアリス」でも宮本君だけがピンとこなかった。
そういう男の子役に岩井さんはカッコイイ役者をもってくるから騙されるけど、ああいう子は魅力的じゃない気がする。
傷ついてるくせに回りに鈍感ではっきり言って嫌いだ。
逆に星野はいろんなことが見えすぎてしまい壊れた。宮台真司さんが言うトコの脱社会化してしまったのだろう。
脱社会化というタームを説明するのは難しいけど、簡単に言うと私たちがこの社会で生きていくうえで大事だと思うモラルや価値観が薄っぺらい書割に見えてしまうことで、無意味だからこそ簡単に壊せてしまう。
これが反社会だと別の価値観をカウンターとしてもってくるから対立が成り立つんだけど、脱社会だと成り立たない。
言うなれば反社会はゲームのプレイヤーなんだけど、脱社会はそのゲームそのものを破壊しようとしてしまうしそのルール自体を壊す存在。
西表島で星野は「死」の可能性に触れてしまう。
自分の死と他人の死が等しくいつでも起こりえるものだと気付いた瞬間。あらゆる価値観が無価値な薄っぺらいものに見えてしまったのだろうと思う。
私はこの脱社会化自体は実はそんなに悪いものとは思わない。
そこのは自分を気付かずに縛っていた抑圧から抜け出すヒントがあるからだ。
実際、星野が不良の男の子に椅子を投げつけるシーンは「おぉ」とカタルシスを覚えた。

ただ脱社会化した星野は今度は逆にその枠にはまってしまったように見える。絶望という枠とでも言えばいいのか。

私はどうしてもここで「木更津キャッツアイ」のぶっさんと比較してしまう。

ぶっさんも不治の病で余命半年と宣言され星野よりも具体的に死と直面してしまう。

でもそこからが星野と違うトコで、だからこそぶっさんは「普通」という価値観を大事にしようとし死ぬまでの間にバンドをしたり恋したりと素敵な日々を送ることができた。

はじめは「木更津〜」の方が絶望を直視してないからなのかなぁ?と思ったけど、必ずしもそうはいえない気がする。
「社会や世界が薄っぺらいものだからこそ壊せ!」たなるのか、だから「愛そう楽しもう」となるのか、脱社会化した人は二通りの選択を選ぶことになるんだけど、どっちの転ぶかは結局、回りの人間関係と運なのかなぁ?と思う。
回りの人間を傷つければ傷つけるほど星野も壊れていく、あれは一つの自傷行為だ。
本当は蓮見や久野さんは気付くべきだったんではないかなぁ、そして何か手を差し伸べてやれたら、この物語はまた違ったんだろうなぁ*5と少し思う。
結局この話が辛いのはみんな自分がサバイバルすることに必死で他者に対する想像力がまったくないことだよなぁ。でその殺伐とした現実の一方でやたらベタベタと繋がってるネットの世界があって、そこで繋がりたい欲求をみんな発散してる。
こういう環境が中学生くらいからあるということは、もしかしてすごく不幸なことなんじゃないかなぁと思う。
現実の住み分け、感情の住み分けがどんどん進み自分自体がバラバラになっていくような。

でもこういう世界なんだよなぁって思う自分もいて、多分リアリティという意味ではやっぱ他の追随を許さないクオリティがあると思う。
でも、これにはまってるコがいるなら、一方で木更津キャッツアイも観て欲しいなぁ。二つ観てやっとバランスがとれるというか。
もっというと木更津キャッツアイ池袋ウエストゲートパークは「リリイ・シュシュのすべて」の世界を内包できるんだけど、リリイ・シュシュ〜にはそれができないんですよね。
それが「俺」系表現の強みで「僕」系表現の脆弱さだと思う。

私の理想としては星野や蓮見みたいないつの間にか閉塞感抱えてるようなコにぶっさんみたいな人が救うとまでは言わなくてもラクになる回路をしめしてあげることで、そういう形で「俺」と「僕」がつながるのが理想なんだけど*6

とここまで書いて終わってもいいけど。そしたら「僕」系表現批判に終わるような気がするので、もう少し考えてみる。
つまり「僕」系の絶望を美に収斂していくような作品の利点なんだけど・・・
難しいなぁ
一つ言えるのは絶望の快楽ってのは確実にあるような気がする。
そしてそれは徹底されていればされているほど強くて中途半端な希望を入れると急にダメな作品になる。
その居心地の良さがある種の人を救ってる事実ってあるんだろうなぁ。実際、私も10代の頃は暗いものを進んで愛好してたし、最近はまたその傾向が出始めてる。
だから今わざわざCoccoとか椎名林檎とか聴いてるし、もうちょっとで浜崎あゆみに手届きそうって感じで。

そういう表現に対して正直もう距離を置こうかなぁって思ってたけど、そこで距離を置いちゃうと見えなくなるものがあるんじゃないかなぁって思いなおしてます。
結局、絶望的な現状認識の上で吐かれる希望じゃないと言葉って生きないのよねぇ。

そういや昔友達と「希望と絶望はどっちが真実か?」みたいな青臭い話をしたことがある。
今は考えるだけ無駄だからあんま考えないけど、往々にして人間は絶望にリアリティを感じるようになっている気がする。
まぁリアリティがあればいいってもんじゃないだろ!って呟きながら生きてくしかないんだけど。

あぁ考えてたら疲れた
誰か私にエーテルください(了)

*1:BBSの書き込みで構成されている。映画版と小説版は丁度いい具合に絡んでいて、小説は映画のエピソードが全部終わった後に主人公の男の子が書きこみで回想する形で構成されている。

*2:あのカタカタカタっていう音はカッコイイ

*3:例えばこのリリイ・シュシュの場合イジメとかレイプとか援助交際とか

*4:リリイ・シュシュを入れたら六番目か?

*5:いやそれをやるのはあの女先生だよなぁ。確かメイキングでは18歳くらいのコをむりやり先生役にしたってあったけど、あの先生の無自覚さが何ともいえない

*6:実際この試みは青山真治監督のユリイカで実践されようとはしたけど・・・