えぇとまず先に書いときますがこの文章、形になってません。メモとおもってください。

id:kurosawa31 さんの所で引用してもらった「僕と俺」に関するくだりなんですけど、本当は成馬01さんの所http://narima01.hp.infoseek.co.jp/hyouronn/00nenndai/bibaotokonokoboys.htmに「俺と僕のアニキな世界」*1というコラムを寄稿する予定だったんですけど、もたもたしてたら今年になってしまい、私の関心が女の生き様に移ってしまたので、書くに書き出せなくて、早く書けとつつかれる日々です。

ただコメント欄で松谷さんも参加され深くなってるんですけど、私が書こうと思ったことは単純に作家さんが主人公にする男性キャラの人称が俺と僕で二分するのでは?と思ったからなんですよ。

一番わかりやすいのは村上龍村上春樹で、村上龍は「俺」春樹は「僕」を一貫して書いてきたなぁと思い、その世界観も
村上龍は時代時代の風俗にガッチリ組むことである種メッセージを発していったわけですよね。

対して村上春樹は一貫して自分の半径5メートルの世界の人間関係、恋人とどう付き合うか?とかを書いている一方でそこから抽象的な哲学的世界に向かって思考していて、その流れが今よくいわれるセカイ系の思考そのものにつながる。

この二分を糸口にして、オタク系作品の主人公は人称が僕で、サブカル系の*2
もっと言うと私がかってにサブカル系と定義している堤幸彦さんや宮藤官九郎さん、マンガでいうと望月峯太郎さんや松本大洋さんの作品はほとんど人称が俺で、そういう区分がいつの間にかできつつあるんでは?という指摘をするつもりだったんですよ。
それで僕の代表をエヴァ碇シンジ
俺の代表をバタアシ金魚の花井カオル君*3だ!と定義しょうかなぁ?と思ったんだけど
ちょっと単純かなぁ?とモタモタしてしまって今に至ってます。

あと村上龍に関していうと、この人は僕の視点も入れてて、そっちが本音では?と思うことが多々あるからなんですよね。わかりやすいのは愛と幻想のファシズム鈴原トウジとゼロの関係で。

ついでに言うと俺と僕というのは対立項ではなくて、結構セットになってる気がします新井英樹さんのザ・ワールドイズマインのトシとモンちゃんとか
ファイトクラブのタイラーと主人公の関係とか。
だから僕系の男の子は無理に自立したりせず、そのかわいい自分を生かして守ってくれるパートナーをさがしなよ。とかちょと思ったりして

だから宮藤さんが村上龍の「1969」の脚本を書くのはある種必然だなぁとか

あと「私」を分類に入れなかったのは単純に自分のことを「私」と発言するキャラが出るマンガや小説がほとんどない気がしたからです。
「私は真吾」くらいではないでしょうか(笑)
どうも「私」という言葉は公の言葉って感じで「私」という人の心の中には俺か僕が住んでる気がします。

そういうわけで「俺と僕」に関する考察は結構広がる問題です。
男性の方は自分が僕の側か俺の側か一度考えてみて、いつから僕になったのか俺になったのか考えてみるといい自分探しになるような気がします。
おためしあれ

補足、ちなみに女性はというと「私」と「あたし」と自分の名前をそのまま呼んじゃう子の別れる気がします。「ユリ的には〜」とか「モー子は〜」とか
その分析は別の方お願いします。

http://a.hatena.ne.jp/narko/simple

*1:君と僕の壊れた世界のもじりです

*2:ただ難しいのはサブカル系という定義が人によって違いすぎることでこれもまた書きずらい理由の一つです

*3:私から見るとぶっさん達ってのは花井カオル君の末裔なのだ